この世は「マトリックス(幻想)」だから頑張る必要はないは本当?
ビジネスやお金の話、社会的な成功を目指すことを頑なに否定する人たちがいます。
いくら時代の流れで、「スピリチュアル」が流行ろうが、頭で『あの世』の仕組みを理解したとしても、
実際問題、毎日の生活や仕事のこと(お金のこと)、つまり生きているうちは、
『この世』の営みから逃れることは、残念ながらできないんです。
そういう大前提(理性)を飛び越えて、目に見えないドラマチックな世界の話を鵜呑みにしてしまうと、
スピリチュアルリーダー(情報発信者)のセミナーなどに散財したり、
現実離れした情報に振り回されて、現実を生きることが逆にしんどく感じてしまうことがあります。
(これは私の実体験含め、セミナーで会った人たちと直接会話して得たもの!)
それに私自身、スピリチュアルな精神世界に傾き〝 過ぎて 〟しまった時期があったからこそ、
現在進行形で目に見えないふわふわとした世界に熱心な人の心境も、痛いほど分かるつもりです。
だからこそ、一番厄介なのが「スピリチュアル」と聞くだけで、反射的に「神聖なるもの」という思い込みがある場合。
(水戸黄門の印籠になってる場合ね!)
情報を体内で処理できない人ほど、「情報」を咀嚼する力(情報リテラシー)が弱いために、
〝 味を確かめることなく 〟インプットしちゃう場合があるんですよね。
だから当時、「偏った意識」で生きていた私は、借金を抱えていたときに何て言ってたかというと、
「お金がすべてじゃない、お金がなくても十分幸せに生きていける!」
なんて強がってたし・・
現実が辛いときは、「現実はマトリックス(幻想)でしかない! いい加減、現実世界で消耗することから目覚めたら?」
って本気で信じてたから、今だから言える話、頑張っている人のことを〝 無駄なあがき 〟のような感覚で見てしまったこともありました。
本当に、感じ悪いヤツだったなぁ(苦笑)
今聞くと、赤面してしまうようなことを真面目な顔して言っていたなぁと、そんな自分を懐かしくも思いますがね。
それこそ当時は、「この物理世界(この世)は本質ではなく、目に見えない世界(あの世)こそが『本当の世界』なんだ。」
というマインドセットをしていたんですね。
(だから心が〝 一瞬 〟気持ち良くなれるスピリチュアルセミナーに借金までして散財したこともあるんだけど・・苦笑)
つまり仏教でいう、この世を幻として認識する『空観』という心理(意識)状態だったんです。
それは、スピリチュアルな人たちがいう「この世はマトリックス(幻想)の世界」というのがそれに当たります。
確かに生物は例外なく、「生を受けて、死という宿命のもとに生きている」と、考えると、
その間の時間は仮想空間に生きているような「幻」とも言えますよね。
だけど残念ながら、私たちは、意識(精神)だけの存在では決してなく、
『肉体』という現実世界を経験すための〝 乗り物 〟に乗ってこの世に存在しているんです。
だからこそ、肉体を維持するために「お金」もかかるし、外の世界からのストレスも受けるから、
感情の残留物を散したり、栄養素を取り入れたり、新しいエネルギーをチャージするための「余暇」も必要なんです。
とはいえ一方で、頑なに目に見えることしか見ようとせずに(というかバイアスが強くて見えない)、
物理的な豊かさだけにとらわれている状態を、『仮観』と言います。
お金は多ければ多いほどいいし、高学歴(ハイステータス)勝っている。
という上下で人でジャッジする「選民思考」に繋がっていくんです。
つまり私は過去、必死でステータスを追い求めて「うつ病」になり、次にスピリチュアルにハマって現実に収拾がつかなくなり撃沈した。
という〝 対極の経験 〟があったからこそ、
今では自分にマッチする『中庸な生き方』が見つけられたような気がしています。
そう、仏教でいう『中観』という概念に当たります。
『中観』は、一旦この世を幻想だと認識したあとに、それを踏まえて、自分はこの世で何を成すか、そして外側に何を与えるのか。
人間それぞれに備わった「個性」を発揮し、社会に価値(機能)を提供することを決めて生きること。
そして、他の人もそれぞれ異なる個性があると認められることを言います。
つまり、『空観』から『仮観』、そして『中観』へと意識をアップデートすることは人生という枠組みへの理解を深くうながします。
とまぁ、その経験が糧となり、私の情報発信の土台となるテーマが築かれていったんだけどね。
「現実に活かしてこそのスピリチュアル」
「人間のスピリチュアリティを開いて、人生を遊ぶ方に生きる」
相反する概念を統合するには、もう一次元高い視点から見る必要があるんです。
そんな、今は「陰陽統合」の次元に、意識がアップデートされていきました。
きっと、人類がこの意識で生きることができたら、争いもいがみ合いもなく、異なる個性の共存(調和)が生まれるんではないかなぁ。
と、私は思っています。